【命】どんなに訴えても、一番伝えたい人に伝わらない正論【理想・無責任】

正論は正しいし、その正論は生きていく上で大事なものではある。

それが広まれば世間は良くなるし、場合によっては生きる力となり、希望になるかもしれない。

 

それでも、命を絶つ選択をするほど人生に絶望のどん底にいるときしてほしいことはなんなんでしょうか。

 

もしかしたら助けてくれない優しい言葉じゃなくて、黙って手を差し伸べてくれる人なんじゃないか。

 

 

私は最近そんな気がします。

 

千の風になって a thousand winds

千の風になって a thousand winds

 

 

そう思った全ての始まりは、10年ほど前に書いた一つのブログ記事についたコメントでした。

 

 

当時の私は辛いいじめを乗り越え、穏やかな日々を送る学生でした。

そんな当時はいじめが社会問題として取り上げられ、千の風になってが流行った時代でした。

だからこそ当時は辛い日々はいつまでも続かない、生きていればいいことがあることを学び、辛い思いをしている人たちに少しでも救いをと思いブログ記事で

「生きていればいいことがあるんだから、命を捨てることはないんだ!」

と熱い想いをブログに書きました。

 

記事を書いた当時は結構いいこと書いた、この記事で少しでも辛い思いをしている人を救うことができれば、と若い私はそう思っておりました。

 

でも、そのブログ記事についた唯一のコメントには

「無責任に軽々しくそんなことを言うな、

命をたちたくても実行できない人もいる。

あまりそう言う綺麗事を言うな」

でした。

 

内容はうろ覚えなので、実際にはもっとマイルドな口調で内容が微妙に違うかもれませんが、要約するとだいたいこんな感じだったと思います

 

とりあえず、私の救いたいという思い、いや救いたいと言う自己満足な押し付けは

少なくともこの人には届かなかったのです。

ではなぜ、届かなかったのでしょう、それをちょっと考えてみたいと思います

 

1,人のつらさは人と比べることはできない

まず大前提として、私はここを勘違いしてたんだと思います。

自分も辛かったけど頑張った、だからあなたも大丈夫。

そんなスタンスで多分ブログを書いてました。

 

でも私のつらさと相手のつらさは果たして同じだったのでしょうか。

 

例えば一口にいじめといっても、無視なのか、何かひどいことを言われたのか、いたずらなのか、暴力なのか、それ以外にももっとひどい何かをされたのか、それら全部なのか。

まずこの時点で同じいじめでもつらさは違ってきます。

 

それだけじゃありません、人の性格やそれまでの環境によって受け止められるつらさも違いますし、それを受け止めてくれる人がいるかいないかにもよってきます。

 

でも自分の感じているつらさが他の人より大きいのか小さいのかなんて、人の心をのぞけない限り測りようがありません。

 

わかりもしないのに、自分より辛い思いをしてるかもしれないのに、

自分よりも大変ではなくても、その人にとってはこの世の終わりほどの絶望を抱えているのかもしれないのに

「自分も辛いことがあったけど乗り越えられた、あなたも頑張るべき」とだけ言うのは理想の押し付けなのではないでしょうか。

 

少なくともあの時の私が書いた記事は、押し付け以外の何者でもなかったかもしれません。

 

2,都合の悪いことには耳を塞ぎがち

きっと多くの人がそうなのではないでしょうか、

しかも正論であればあるほど結構辛いものがあったりしますよね。

 

それが良い悪いと言う話ではなく、それが人間だと言うことだと思います。

 

 

自分の信じてたものが違ってたなんて思いたくないですもんね。

それに性格、わかっていてもなかなかできないと言う場合だってあります。

 

ただ一番どうにもならないのは環境、特に未成年。

もし何かを言われたところで、自分ではどうしようもない場合はアドバイスを聞いても実行できず、唇を噛み締めるしかありません。

 

例えるなら、学費がなくて困ってる高校生に、学生は勉強が本分だからと突然学校がバイト禁止にしても

お金に困ってるその学生に反発されたり、こっそりバイトしたりする人がいると思います。それと同じなのではないでしょうか。

 

だから手を差し伸べられないびぶ、一方的に自分の理想や考えを押し付けたところで、相手が聞いてくれるはずがないのです。

 

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3,どんな正論も助けてくれないなら無意味。

2でも言いましたが、結局のところ辛い思いをしている人は理由は違えどその環境に耐えられる状況ではない、と言うことです。

大人になって、職場の仕事内容や人間関係に困っているなら転職すれば解決するかもしれませんが、転職だって成功するかわからないのでそう簡単に実行できませんし、

大人ですら簡単に環境を変えられないなら、未成年の身の回りの環境なんてもっとどうにもなりません。

親がお金持ってるか、愛情を注いでもらってるか、学校のクラスなんて、本人だけではどうにもなりません。

それを乗り越えるのが成長なのかもしれませんが、子供の世界は残酷で最近ではその程度がひどくなってます。

 

 

こんな時に本人がほしいのは、「頑張れ」と言う言葉だけの励ましや「逃げたら負け」なんて言う精神論ではなく

その絶望的な状況から現実的に救い出そうと力を貸してくれる人、それができないならせめて

現状を脱するための明確なアドバイスをしてくれる人なのです。

 

なぜなら、言葉だけでは相手の現状は何も変わらないからです、精神的にも何も救われないからです。

「同情するなら金をくれ」

なんてドラマのセリフがありますが、命を絶ってしまう人の気持ちもこんな感じなのかもしれません。

 

 

結論、行動が伴わない優しい言葉は無意味

この3点がコメントをもらってから悶々と考えた答えでした。

 

中にはこれを甘えだとか、そこまで求めるなとか、そこまでは知らない、知らなかったと言う人がいるかもしれません。

 

それはその通りかもしれないですし、そこまで人に求めるのは間違いかもしれません。

 

でも本当の自分でどうしようもないほど絶望の中にいる人にはそんなことを言われても響きませんし、どうしようもできないのです。

 

あの日、あのブログ記事を書いてからそれを実感しました。

私だって絶望の中にいたことはある、でも結局私は耐えられた。

それを耐えられない人も世の中には大勢いる。

耐えられた私がどんなに偽善と理想の言葉を並べても、それは結局は自己満足の偽善以外の何者でもないのです。

 

だって知人を助ける力もない私に、不特定多数の画面の向こう側にいる人を、辛い生活や環境から救う力があるわけがないのですから。

 

もちろん、世の中には自分の実体験をネットや書籍、テレビで話すことで救われた人や、笑いや芝居に引き込まれて笑顔になれる人は大勢います。

 

でもただ「それは間違いだ」「それは逃げだ」と言う言葉だけを、その理想だけを語るだけじゃ自分で立ち上がれないほど絶望している人には届かないんです。

それを世の中に広めて常識になったとしても、世の中に絶望する人は多くいます。

 

命を絶つことしか選べなかった人にそれを逃げだと言ったところで、環境を変えられない本人は袋小路になって結局は絶望から逃げ出すことができないんです。

 

言葉だけじゃ足りないんです、伝わらないんです、私の時のように。

 

その人たちがほしいのは、同情、綺麗な言葉、命に対しての風潮の変化ではなく救ってくれる人。逃げることができる環境、没頭できる何かです。

 

それを準備できなくて、綺麗な言葉だけをかけるのは無責任だったんだなと

だからあんなコメントが来たんじゃないかな、と数年を経て答えにたどり着きました

 

 

もしかしたらこの記事もまた私の意見の押し付けで、あの日書いたブログと同じことをしているのかもしれませんけどね。

 

でも、世の中を変えるためには結局偽善の言葉より、精神論より、

問題発生する前に動く行動力なのかなと私は思います